栄とし覚え書き(日記)

画像: 先代の教育法2

先代の教育法2

2007年06月19日


           先回書いたようなわけで


   仕事上での怒り方も若いときはハンパではありませんでした(^^)

最後までただ一人残った弟子のT氏に、先代の思い出話を聞くと必ず出るのが「床屋に行って坊主刈りにするのがイヤでのう。」

            どうして? と聞くと

「親方に頭叩かってばっかいて、頭の形が変わったんだいや!」と頭をさすっていました(^^”)すると一緒にいた80の看板娘が



「わ〜たしも頭から血を流した事があったよ〜」と、すかさずT氏は「そうらったいの〜」(そうだったね)


私は、その時小学校に入るか入らないかぐらいでした。ちょうどその場面を目撃していました(^0^)


               話はこうです

80の看板娘が中砲(なかづつ。4〜5キロくらいの重さ)で込み(こみ。鑿の柄が差し込まれる部分)を叩いていたときの事でした。80の看板娘が上手に叩かないでイライラして怒り声をだしていた先代が、ついにプッツンしてしまい脇にあった「差し金」の角で、80の看板娘の頭を叩いたのです。


*   写真は、同型の「差し金」


当然のように頭から血が流れ出ました。私はこの時、「何をするんだこのくそ親父は!」と思いました。それは、「血止め」と称して80の看板娘の傷口に「タバコ(しんせい)」を刷り込んだのです(^^”) 


後で親父は、あれは血止めだと教えてくれました。きっと、軍隊で非常時の方法として教わっていたのかもしれません。


               しかし


  不思議な事に80の看板娘も弟子のT氏も先代を憎んではいませんでした。

私も修業時代、けっこう三人の連帯責任で怒られましたが、元はと言えば自分がうまく仕事ができないのが「直接的的原因」だったからです(^^)


ですが、いつもこの話になると最後に弟子のT氏が「いや〜、俺たちも下手らったけど、あん時は親方も火造りが下手らったんだがね〜。だ〜すけ、しょうがねえんだいの〜。」(本当に、俺たちも下手だったけれども、あの頃は親方も火造りが下手だったんよ。だから、しょうがないんだよ。)


                  と

 
  自分の経験談を交えた話でみんなで笑ってこの話が終わるのです(^0^)



   きっと、こんな野蛮な話は世間の人々は信じてくれないかもしれません。



でも、本当にこんな風にして、昭和の「鑿鍛冶の名人、佐藤栄登志」から私たちは、仕事を叩き込まれたのです。


次回につづく

              五代目 えいとし鑿製作所   佐藤 亘
ホーム | ショッピングカート 栄としノミ案内 | 送料・お支払い方法など
Powered by おちゃのこネット