5代目栄登志(えいとし)が一本一本鍛える本手打ちの印刀・鑿(ノミ)!!
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2007年10月10日




          誠に申し訳ございませんが


今週の10月12日〜17日まで、鍛冶場の方はお休みとなります。


 ご注文・メールによるお問い合せは通常通り行っております。

   メールの返信は、18日以降になるかもしれません。




     研修(遊び含む)で中国に行ってまいります。

  「遊び含む」っていうか…「遊びだけ」っていうか…?


今回は、高昌国方面ですので無事帰ってきたら、店長日記に書きますね(^^)”


             のみ鍛冶
  


             佐藤 亘





2007年10月08日

今回頂いたメールです(^^)

「佐藤様、S・Oです。
本日10月5日現在、印刀確かに受領しました。
手にとって感触を確かめてみました。
刃先の輝きをみていると
何か、新しい作品が作れそうな予感がします。
ありがとうございました。」


この度ご購入頂きましたのは、「中国伝 呉碩刀角形籐巻き 3分 鋭角」です。


呉昌碩が使用した刀を確認させてもらったわけではないですが、おそらく私が鍛えた刀の方が、安全で高性能だと思います(^^)”


ドラえもんがいたら・タイムマシンがあれば・ドクがいれば…。
ぜひ、呉昌碩に試刻してもらいたいですね。


自信有り!!!! です(^0^)



えいとしノミ
       佐藤 亘 





2007年08月18日


新潟明訓ナイン、よく頑張ってくれました(^0^)


被災地の皆さんを始め,県民、そして新潟県ゆかりの方々も感動されたことと思います。

胸を張って堂々とご帰還ください(^^)


2勝 おめでとう!!




えいとし鑿製作所
         佐藤 亘






2007年08月15日


新潟明訓ナイン バンザ〜イ(^^)




いや〜〜 本当に良く頑張りました!



★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★



まさか  オッと失礼(_ _)


2勝も出来るなんてね(^0^)


ドカベンもきっと喜んでいるでしょう!!



★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★☆※*★






そういえば


新潟明訓のエースの永井君は、小所と同じ「三条市」の出身です。



さらに


今年の春の選抜でも頑張った、新潟の日本文理のエースの栗山君も三条市出身です。栗山君は、私と同じ小学校と中学校の出身です。お父さんは、子供たちに野球の指導をされています。非常にまじめな方です。


栗山君、永井君をはじめとする両校の選手と関係者の方々の日頃の努力を想像すると、努力が実り本当に良かったなと思います。今後のご精進をお祈り致します。




新潟明訓ナイン


ここまできたら一気呵成に突き進め!



健闘を祈る(^^)













2007年08月13日
 


     写真は 81の看板娘の セラピー犬?です



名前は ボス(^^)


種別  チワワ


性別  オス


年齢  63日



生年月日   平成19年6月1日(金)




新しい家族です


どうぞよろしくおねがいいたします  







2007年08月01日


                あんまり


          水害だ
地震だ大雪だ竜巻だまた地震だ



           な〜んて ばっかり言っていると


                だんだん 



             くら〜くなってくるので



 



       心 機 一 転 (^^”)


   次回から 災害以外のことを書くぞ!!


        今日は 暑かった (_ _)



     それでは みなさま お体大切にこの夏を乗り切りましょう





2007年07月24日


         こんかいの「中越沖地震」が発生した時


         81の看板娘は、微動だにしなかった!!


             恐るべし 81の看板娘


        当時、家には私と子供2人と81の看板娘がいた

            私と81の看板娘は茶の間に

       上の子供は、茶の間の隣の部屋、下の子は二階の部屋


          ドーンという音とともに地震が起きた瞬間


         私は、下にいるものに便所か風呂に逃げろ!!

   二階の子には、この揺れが治まったら下におりてきて一緒に外に出るぞ!!


                  しかし



              81の看板娘がいない


             オイ、ばあちゃんはと叫ぶと


           となりにいた子が、まだ茶の間!!1


                  ヤバイ


       私は、震度5強の揺れの中を慌てて81の看板娘のところに



                 そうしたら



                な、な、なんと!


81の看板娘は、平気な顔で頭にヘッドホーンをしながらNHKのテレビを見ていた。


       私は、とたんに緊張がほどけ、一瞬苦笑いしながら



急ぎ、ヘッドホーンをひったくり手を引っ張って「ばあちゃん、地震だて!」と怒鳴りながら便所へ。


1人で怖かったのだろう、二階にいた子が揺れが少し小さくなってきたと思ったのだろう、あわてて下におりてきた。


やっと、81の看板娘でも歩ける位の揺れになったので、みんなで履物を履いて外に逃げ出しました。


        とりあえず、みんな無事で良かった(^^”)


つづく


栄登志ノミは、頑張って通常営業をしております。どうぞ、お気軽にご連絡くださいませ。
             

                  五代  エイトシのみ 佐藤 亘
2007年07月19日


この度の中越沖地震では、多くの方々からお見舞いのお便り・励ましのお言葉をいただきました。
 
心より感謝申し上げます。

慌てており、粗そうな応対もあったかと思います。
 
失礼が有りましたら、どうかご容赦のほどお願い申し上げます。

おかげさまで、「佐藤栄としのみ製作所」は何とかヒビが増えた程度で生き残っております。


仕事は、通常どおり開始致しておりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
 

取急ぎ御礼方々ご報告のみ

不一

佐藤栄としノミ製作所          五代  佐藤 亘
2007年07月16日



まず最初に、今回の中越沖地震で被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。こう天災がつづくと、慰めの言葉も思い浮かびません。ただただ、一日も早い地震の終息をお祈り致します。





          ん〜  もうイヤだ!!

        3年前の7月13日は、新潟大水害


         10月22日は、中越大地震

 

            その冬は、大雪



          今日は、中越沖地震だって?



           もうかんべんしてくれ〜




              それでも



      佐藤えいとしノミ製作所は、生きています(^^”)


            今日は、疲れました。



          ここまで! m(_ _)m
2007年07月13日


           7・13 今日は何の日?


 3年前の今日、新潟県三条市を流れる五十嵐川の堤防が決壊し大水害となりました。


         それは、午後1時15分のことでした


            三条市だけで死者9人


              重軽傷者83人


        浸水等被災 7511世帯で、2万人以上




   大きな借金をかかえながら、個人も企業も黙ってガンバっている



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

全国から来て頂いたボランティアの方々本当に有難うございました m(_ _)m


   義援金をお送りくださった方々、本当に心より感謝申し上げます。



★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆



        わが町、三条は一所懸命ガンバっています!



★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※*☆★★☆※



どうも新潟豪雨から、今までの豪雨災害とは違う雨の降り方が多くなって来たと思うのですが…。短期集中の一点が被害に遭いますよね。今年の九州の被害もそうですよね。やっぱり「地球温暖化」の影響なのでしょうか?



      被害に遭われた方々、心よりお見舞い申し上げます。


         不乙

               佐藤えいとし鑿製作所
                         五代  佐藤 亘 再拝
2007年07月12日
     *  写真は、笹団子の手作り中の様子です(^^)


我が家では、恐ろしい事に、今でも手作りで「笹団子」を作ります。笹取りや、餅草(よもぎ)取り等一連の作業を考えると、買った方が遥かに楽ですし疲れません。でも、どうしてか又今年も作ってしまいました。


今年は、チョッと大変でした(^^”)


それは、81の看板娘が「アルツハイマー性痴呆」で要介護判定1となり、去年までのように全作業工程を、段取れなくなってしまったのです。それで、家族全員で(81の看板娘を含む)段取りを思い出したり、分からないところは仲間のお菓子屋さんに聞いたりしながら、やっと作り終えました。


今回の作業と仕込みの材料や分量を、長女がノートにまとめてくれましたので次回からは問題なくやれます(^。^)



まぁ、私は多少でも作業に関わるのですが、内のオヤジ(先代)は一切手伝いませんでした。しかし、出来ない訳ではないんですね。家族全員が一所懸命に作業をしているのを、ニコニコしながら聞きつつ、自分は「碁」をやっていました。


そして出来上がると、うまそうに満面の笑みで「今年んのはうんめぇの」(今年のものは美味しいね)といいながら、いくつもいくつも食べていました。


先代の若い頃、といっても結婚後しばらくの間は、酒・タバコはしませんでした。もっぱら、甘党だったようです。特に「こしあん」が好きでしたね。

今も、仏壇に笹団子と粽がお供えしてあります。オヤジは、今年の団子をどう感じたんでしょうか。美味しかったでしょうか?


私が子供の頃の先代のイメージは、自分で出来るくせに弟子や家族にさせ、どうにもならない状況になるとオレの出番がきたかとばかりに黙々と作業をやりました。それが、以外と格好良く見えたものでした。そりゃ、うるさいくそオヤジだと思った事もいっぱい有りましたけどね(^0^)


そういえば当時(私が中学頃)、三船敏郎さんのCMで「男は黙ってサッポロビール」ってのがありましたけど、本当にそうですね。今思うと、チョッといけてましたね!!


つづく
                   刻字用のみ鍛冶  五代目 佐藤 亘
2007年07月06日
       昨日は、80の看板娘の誕生日でした(^^)


        大正十五年生まれ、満81才現役です!


三年前の動脈硬化によるバイパス手術以後、体調がかなり落ち込んだのですが、現在では相当回復してきたいます(^。^)


きのうは、「梅干し」と「梅酒」の作り方を孫に教えていました。多少物忘れが増えましたが、作業そのものは現役バリバリです(^^)



*  写真は、仕込みを終えた梅酒と満81才現役看板娘です。



昨日の夜は、満81才現役看板娘のお誕生日を祝って、バースデーケーキ(アイスケーキ)を食べました。自分の名前が書かれたチョコのネームプレートが本当に気に入ったらしく、「ばあちゃん、食べねでとっとこかな」(食べないで、保存しておこうかな)と、何回も言っていました。最後の最後で、ようやくあきらめたのか食べていました(^。^”)


人間年を取って老境にさしかかると、「子供に近づいていく」と聞いた事が有りますが、最近のオバアを見ていると「そうかもしれない」と思います。


私も、生涯現役で「かわいい」と思われる老境を過ごしたいと思いました。



                        かじや 佐藤 亘
2007年07月05日


*   写真は、先代が愛用していた二代目碁盤です。厚さが4寸の材で、初代よりも厚みがないので残念がっていましたが、それでも素人にはけっこう好い音がしていました(^^)


       「ヒカルの碁」という漫画が人気がありましたね、

        とても面白くて子供たちにも話題になりました。



 我が家の子供たちも「ヒカルの碁」にハマリ、4人でギャーギャー言ってました。

   そんなに ギャーギャーいうなら、じいちゃんに言って教えてもらえば? 

      と言ったと思っていたんですが、子供たちに聞いたら



    「そんな話は聞いた事がない!」と、一蹴されました(ー。ー)”



それで、子供たちに確認しましたら4人でギャーギャー言ってたのは、じいちゃんが亡くなってからだそうです(^^”) いや〜 ついに三年前の事が思い出せないなんてね。子供たちから、「父ちゃんヤバクね!」といわれてしまいました。




            「おやじの碁」


          は、楽しむ「碁」でした。

  私は、勝負を賭けてやられる方がいるという話をよく聞かされました。


私が、まだ中学生頃だったと思いますが近所に有った碁会所に、来客を知らせるために自転車で呼びに行った時。指導役の方が、「佐藤さんの碁は素直で筋が良い」と言われたのを覚えています。まぁ、今思えばお世辞なんでしょうけどね(^0^)


そうそう、弟子のT氏と80の看板娘と私もおやじから碁の手ほどきを受けたのですが、まともに初段くらいまでいったのは弟子のT氏だけで、80の看板娘と私は撃沈でした。弟子のT氏は、よく碁のランク別の大会で商品稼ぎ?というか、けっこう賞に入っていたようです。


おやじは、この辺の大会では一番上のランクだったようで、たまに賞の最後に名が入った程度だったように記憶しています。



特に晩年のおやじの棋風というんですか碁風というんですか、碁の風格は中国でいう「文人」か「隠者」の風がありました。碁会所が二転三転して自宅から遠く離れてしまってからは、自宅で新聞やテレビや雑誌を利用して1人で、白と黒の碁石を持ってパチンパチンと良い音を響かせながら碁を打っていました。



                      つづく

                        篆刻刀鍛冶  佐藤 亘
2007年06月25日
   


      先代の趣味は、ヤッパリ囲碁ですね(^^)


日本棋院の三段の免状をいただいてからは、昇段には興味を示さずに自分で囲碁の機関誌を毎月購入して碁盤に向かっていました。


*   写真は、先代が愛用していた初代碁盤です。厚さが五寸の材でけっこう好い音がしていました(^^)


囲碁や将棋に興味の有る方にはけっこう全国的に名の知れた将棋の駒師の方が三条市におられました。確か「竹風駒」と言うんだと思います。間違っていたらごめんなさい。そこのお店で製作してもらった碁盤です。私は、囲碁や将棋にはあまり興味がないのでよく分かりませんが、最初に製作してもらった碁盤の目が使いすぎたのか、漆盛りの目が消えかかってきたので、新たに購入したんだと思います。


私が、高校を卒業して鍛冶場に入っていましたので、今から25年〜30年ほど前だったでしょうかね〜。


毎日仕事が終わると、1人で碁の本や新聞の碁の欄を自分で碁石を打ちながら確認していました。そして、大学ノートに毎日マメにノートを作ったり新聞の囲碁欄のスクラップブックを作っていました。


     「継続は力なり」と言いますが本当にそうですね(^0^)


次回につづく

         佐藤栄登志のみ製作所
                  五代目  佐藤 亘
2007年06月19日

           先回書いたようなわけで


   仕事上での怒り方も若いときはハンパではありませんでした(^^)

最後までただ一人残った弟子のT氏に、先代の思い出話を聞くと必ず出るのが「床屋に行って坊主刈りにするのがイヤでのう。」

            どうして? と聞くと

「親方に頭叩かってばっかいて、頭の形が変わったんだいや!」と頭をさすっていました(^^”)すると一緒にいた80の看板娘が



「わ〜たしも頭から血を流した事があったよ〜」と、すかさずT氏は「そうらったいの〜」(そうだったね)


私は、その時小学校に入るか入らないかぐらいでした。ちょうどその場面を目撃していました(^0^)


               話はこうです

80の看板娘が中砲(なかづつ。4〜5キロくらいの重さ)で込み(こみ。鑿の柄が差し込まれる部分)を叩いていたときの事でした。80の看板娘が上手に叩かないでイライラして怒り声をだしていた先代が、ついにプッツンしてしまい脇にあった「差し金」の角で、80の看板娘の頭を叩いたのです。


*   写真は、同型の「差し金」


当然のように頭から血が流れ出ました。私はこの時、「何をするんだこのくそ親父は!」と思いました。それは、「血止め」と称して80の看板娘の傷口に「タバコ(しんせい)」を刷り込んだのです(^^”) 


後で親父は、あれは血止めだと教えてくれました。きっと、軍隊で非常時の方法として教わっていたのかもしれません。


               しかし


  不思議な事に80の看板娘も弟子のT氏も先代を憎んではいませんでした。

私も修業時代、けっこう三人の連帯責任で怒られましたが、元はと言えば自分がうまく仕事ができないのが「直接的的原因」だったからです(^^)


ですが、いつもこの話になると最後に弟子のT氏が「いや〜、俺たちも下手らったけど、あん時は親方も火造りが下手らったんだがね〜。だ〜すけ、しょうがねえんだいの〜。」(本当に、俺たちも下手だったけれども、あの頃は親方も火造りが下手だったんよ。だから、しょうがないんだよ。)


                  と

 
  自分の経験談を交えた話でみんなで笑ってこの話が終わるのです(^0^)



   きっと、こんな野蛮な話は世間の人々は信じてくれないかもしれません。



でも、本当にこんな風にして、昭和の「鑿鍛冶の名人、佐藤栄登志」から私たちは、仕事を叩き込まれたのです。


次回につづく

              五代目 えいとし鑿製作所   佐藤 亘
2007年06月15日

             親父(先代)の教育法

      本人が第二次大戦の終戦の年に、海軍に招集されたせいか?
          家族や弟子が失敗したりしてしまうと


              《 連帯責任 》


       とかで、全員正座させられてチクチクグチュグチュ…

             口答えをしようものなら

           ゲンコツも1つや2つで収まらず…

     「目から火が出る」と言いますが、本当にそうですね!!



私が悪戯して怒られたときは、「いいか亘、シッカリ歯食いしばって足を肩幅に広げろ!そして、両手は後ろに組め!!」といいながら、瞬時にゲンコツが…

これぐらいのときは、翌日友達が私の頭を見て「亘、頭何した〜?」と聞かれるほどデカイ瘤たんができていたのです。


    昔のテレビドラマの「寺内貫太郎一家」の寺内貫太郎以上でした!


 昭和三十年代は、どこの家庭も似たり寄ったりだったのではないでしょうか?

              そうしましたら

     後年、仲間達から「おめっちだけらいや」(お前の家だけだ)

        といわれ、チョッとショックでしたね(^^”)



               話は戻りますが

  私は、長男で跡継ぎのせいか怒られ方が一番少なかったようです(^0^)


              少ないとはいっても


布団や毛布に包まれ縛られて、押し入れに閉じ込められたことも一度や二度ではなかったですね。夜、家から外に追い出され泣き喚いたことも…


            なんか懐かしいですね(^^”)



次回につづく


                    佐藤えいとしノミ製作所  
                                佐藤 亘
2007年06月11日
     親父(先代)の仕事スタイルは、とにかく凄いの一言です!

   72才の秋に、自分から「やめる」というまで仕事仕事の生活でした


朝は、早いと午前四時から夜は午後十一時過ぎまで、グワラン〜グワラン〜と音を立てて仕事をしていました。若い時とはいえ、よく頑張ってやり続けたものです(^^)

私が小学校に入る前ぐらいの記憶では、今思うと朝鮮動乱や東京オリンピックがあったりと高度経済成長の時期だったんでしょうけどね(^^”)


でも疲れが溜まると、弟子のT氏と一緒に一日中ラーメンを食いながら「碁や将棋」をやっていました。こんな事が何日か続いたりしていました。


*   写真は、日本棋院の碁の段位認定証です、実力は三段でした(^^)


そういえば、弟子のT氏が言っていましたが「続けて何杯大盛りのラーメンを食えるかを2人で争ったり?」したそうです。どっちが勝ったか忘れましたが、スープまで飲んで完食なんだそうで、4〜5杯づつ食って2人とも腹を壊したらしいです(^0^)


 厳しい親父でしたが、こんなお茶目な面をいっぱい持っていた人でしたね!


               栄登志のみ鍛冶  五代目  佐藤 亘



次回へつづく
2007年06月08日
昭和24年に先代(四代目)は、現在80の看板娘と結婚します。(^^)
その後、長女が生まれますが、まだ本家に通って仕事をしていました。

その頃は、すでに三代目が退院して本家に戻り療養も一段落していましたので、
昭和25年に先代(四代目)は独立することになりました。

この時、すでに弟子のT氏がいました。

この頃は、戦後の混乱がまだつづいていた頃でしたので、現在のように1つ1つ電動モーターで動く機械は充実しておりませんでした。

当然、グラインダーもスプリングハンマーも送風機もありませんでした。

昭和39年の東京オリンピックが開かれた頃は、私が小学校の中学年の頃で「ふいご」がまだありましたし、旧式のグラインダーがあったのを覚えています。

旧式のグラインダーは、1つのモーターで「平ベルト式プーリー」で工場全体の機械を稼働させるというやり方ですから、工場だけでなく隣近所も多少揺れました。そして、音も超近所迷惑なほどでした(^^”)

でも、隣近所のほとんどが握り小ばさみ、包丁、鎌、鉋などの鍛冶屋さんや磨き屋さんとかでしたので、お互い様と言えばお互い様でしたけどね(^0^)


*  写真は、今でも鍛冶場に残っている「平ベルト式プーリー」の残り香?残骸?


つづく

                   鑿鍛冶の五代目 
                            佐藤 亘
2007年05月31日

* 写真は、前回お話しした「三代目から託されたノート」の一部分です。驚くことに、ほとんどが墨書されています。昔の人は、本当に大したもんですね〜(^0^)

   このノートが購入されたのは、下記のことから特定できます。


「紀元二千六百年拾貳月拾参日求 新發田陸軍病院一番屋…」 とノートの一番最後に書かれてあります。

 今風に書き直しますと、「昭和15年(1940年)年12月13日に求む。新発田陸軍病院の一番屋」となります。「先代の生き様」で少し書きましたが三代目は、傷痍軍人でした。新潟県の新発田にあった陸軍病院で療養中のときです。


    どんな気持ちでこれを書き始めたか、今は知る由もありません。


 少しずつ書きためたようで、古い物では昭和9年のこと。そして、昭和16年〜17年のことが主に書かれており、一番新しいのが昭和二十年のことが書かれています。

 書かれている内容は、先に触れた「のみの寸法」のほかに「金物屋さんへの価格表」そして、「注文の控え」などが書かれています。


       現在の価格と比べますと、時代を感じますね〜。


 そういえば一見のときに三代目が、「自分が書き残した他の記録も亙君にやるれ」っと、言われてましたが結局はもらわずに終わってしまいました。今思うと、チョッともったいなかったですね(^^)


                  五代目 佐藤栄とし鑿製作所 
                                佐藤 亘

                つづく
2007年05月23日

          私が、五代目を名乗るわけ!


 本来なら、本家の方で四代目五代目… と繋がるはずだったのです。しかし、四代目予定者が数年修行をされたのですが、頭脳明晰であったため母校の先生に請われて学業に励み別な道を歩かれたのです。
                               いちげん
 私が結婚して間もなく、夫婦で本家におよばれした時(こちらでは、一見といいます。)本家(三代目)から、「亘君、へえ家は誰もノミ鍛冶をつがねっけ、亘君おめえにたのむっけの。がんばって好い職人になってノミ鍛冶ついでってくれの。オレが仕事やめたら、オレの刻印も亘君が自由に使っていいすけの。」(亘君、もう我家は誰もノミ鍛冶を継がないので、亘君お前に頼むからね。がんばって好い職人になってノミ鍛冶を継いでいって下さい。オレが仕事をやめたら、オレの刻印も亘君が自由に使っていいからね。)と、「佐藤の鍛冶技術継承」を託されたのです。

 他にも、ときに寂しそうな顔をされながら、色々話されたのですがチョッと思い出せません。



*   写真は、その時三代目から渡されたノートです。このノートには、
    各種鑿の寸法や火造りのときの寸法他が書いてあります。
    こういうのを「秘伝書」っていうのでしょうかね〜?


 この日以降、私には「五代目を継ぐ」という意識が生まれたのです(^^)


                          次回につづく
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